特集 一九八九年ヒロシマから

・反戦反核運動の再構築のために

広島原水禁常任理事 松江

  労働運動研究 19898月 No.238

 

一、 八・五反戦反核広島集会の歴史から

 

  八・五反戦反核広島集会は今年で第五回目を迎える。ふりかえれば一九八五年、それまで十年近くも続いていたいくつかの運動の流れを統一して集会をひらこうという計画が生まれ、それが成功して八五年の八月五日、第一回の八・五集会がひらかれた。この年の主題としたのは、一九四五年八月六日の原爆被害を歴史的断絶としてではなく、侵略戦争の歴史のなかで広島・長崎が出会ったかつてない惨虐な被害としてとらえ直すことであった。そうしてその視点から改めて被爆者の心の奥深く潜む「まどえ、もどせ」という怨念をくみだすことからこの運動ははじまった。

  二年目には五月に発生したチェルノヴイリの原発事故とその広くて深い被害を追及することから、余りにもまざまざしい被害の相似は直ちにヒロシマ=チェルノヴイリを共通の恐怖で結びつけた。それはヒロシマから始まった核時代がもたらす惨虐な被害がまさしく国境を完全に越えたことを確認しつつ、新しい核時代の「ヒロシマ宣言」を人類の人間宣言として追求すべきことを開示した。この二年間にわたる追求は私達の反戦反核運動に新しいまなこを開かせた。それはヒロシマの核被害が十五年戦争と分ち難く結びついていることから、日本と日本人の歴史的な加害と被害を目をそらさずに見据えるという見方を運動として確立することができた。それはまた広島・長崎に体現された核被害を一国主義的な立場ではなく、世界的視野からとらえ直すという国際的な立場を運動として確認することができたことであった。

  三年目からはこうした基礎的な視野のなかで、日本の民衆の一人として日本帝国主義がかつて侵略、殺鐵、支配したアジアの民衆と結ぶために、東アジアと日本との歴史的な接点でもある沖縄との結び合いを求め、双互の怨念を確かめあった。この結び合いを媒介したのは、当時、国体最後の訪沖によって過去一切の免罪をあがなおうとした昭和天皇訪沖反対の闘いだった。それは天皇自らが国体護持のために降伏を引き延すことで沖縄の「集団自決」(「虐殺」)と広島の原爆被害(虐殺)を招きながら、戦時中だから仕方がなかったとうそぶくことによって両者に対する負の媒介となった。私達はこの年の追求のなかで、天皇(天皇制)と直面してたじろがぬ運動の思想を確かめ合うことができた。天皇(天皇制)、それはいつの時代―戦前も戦後も―にもすべての民衆運動にとってその思想が問われる試金石なのである。

  こうしてようやく四年目の昨年八・五集会には、東アジアのなかで日本人として過去・現在を通じてもっとも恥ずべきかかわりの深かった韓国から、はじめて闘う民衆運動の息吹きを迎えることができた。この年の追求を通じて私達はアジア・太平洋の民衆と正面から向き合い、ともに手をとり合って反戦反核を闘うことができることを確信したのだった。

  こうして今年一九八九年の八・五集会はこの四年間の総括をこめて、「ヒロシマは核と軍備と天皇を拒否するーアジア民衆の連帯をめざして」と提起することができた。今年の主題は総括討議のなかから今までこの集会に参加してきた反トマ・反基地闘争、反原発・脱原発運動、反天皇運動、被爆者(原爆被害者)運動の交り合った討論を求めつつ、東北アジアの海と陸の核の米ソせめぎ合いの事実を確かめ、東アジア民衆の連帯をめざして反戦反核運動の新たな展開を追求することを目標としている。

  もう一つの重要な主題は総評解散後の日本の反核運動の前途と、私達の主体的な運動の建設との新たな展望を討議することである。私達が五年前この統一集会をはじめたとき、今日の原水禁運動が重要な歴史的役割を果たしてきたことを前提としてなおこの運動の思想と構造にあきたらぬ思いがあった。しかしそれはまた、当時すでに問題になっていた総評解散による労働戦線の再編成のなかで、今まで総評がその骨格的役割を果してきた歴史的な原水禁運動はどうなるのか。もしこの運動が直ちにではないにせよ回復しがたい打撃を受けるとすれば、広島の運動はどうなるのか。いや日本の反核反戦運動はどのような展望を持ち得るのか、というよそごとでない主体的に切実な課題への思いがあったからである。

 

二、日本原水禁運動とは何であったか

 

  いま目前に総評の解散を迎えようとしている。かつては「もし」という仮定のうえでの展望であったものが、いまは明日の現実となった。私達はそれを必須の前提として日本の反戦反核運動を闘わなければならない。そのためにも過去の運動を総括しつつ新しい運動の再構築をめざして多くの人々と連帯して追求しなければならぬ。

  もし私達が新しい可能性について追求するとしたら、過去の原水禁運動についてたとえ一定の批判と保留があるとしてもなお、日本の反核反戦運動に極めて重要な役割を果してきたこの運動を省みて再追求する必要がある。なぜならば、一つの運動の歴史的転換期には、過去の運動の卒直な分析と批判のなかからこそ新しい運動が創造されるし、そのことによってその運動の積極的な部分もまた継承することができるからである。それは運動者にとって果さねばならない義務なのである。

  総じて私達にとって是非とも明らかにする必要があるのは、日本原水禁運動を今日まで支えつづけてきたこの運動の思想と組織と行動である。私達がかつて漠然とこの運動についてあきたらなく思っていたものは何であったのかをさぐり出さねばならない。それは私達にとってだけでなく日本と世界の運動にとっても是非とも必要なのである。それはその時に生きてその運動のただなかに在る者に課せられた歴史的な責任なのだ。

  私達がこの運動を見きわめるためには、この運動の出生にさかのばらなければならない。日本原水禁運動が生まれたのは一九五四年三月一日の「ビキニ」被災からである。三月十三日、第五福龍丸の帰港以来すばやく流れたビキニ岩礁における米核実験による放射能汚染(「死の灰」)の惰報につづいて、その周辺の海一帯で獲れた「水爆マグロ」の恐怖は日本中の台所を一瞬にしてかけめぐった。それはまた占領下ではタブーとして封印されていた九年前のヒロシマ・ナガサキの惨虐な破壊と殺戮の相をいっきょによみがえらせた。

だがそれはすでに広島、長崎、焼津という一つ一つの町の問題ではなかった。それは三たび原水爆に被災した日本人(日本国民=日本民族)による「世界で最初の受難」であり、ヒロシマ・ナガサキはその国民的な原点とされたのであった。

  五月から始まった多くの都市や町の婦人会、青年団、学者、文化人などによる自然発生的な抗議集会につづいて誰からということなく核実験禁止の署名運動が始まり、広島では急いで百万人署名運動連絡本部がつくられた。婦人会から町内会へ、会社から官庁まで運動は炎が焼きつくすようにたちまち日本列島を燃えあがらせた。労働組合はおどろいて遅ればせに署名運動にとりくんだ。広島ではこの年の八月六日、慰霊碑前の市民大集会に参加する労働組合は婦人会からの申し入れで組合旗を持参しなかった。結局広島では六月から八月半ばまでのニケ月半の間に全県二〇〇万人のなかで百万人の署名が集まり、全国では五五年八月三日、第一回世界大会直前までに三一五八万三一二三名の署名が集まった。

  私の経験のなかで今日まで、この運動ほど〃すばやく""日本中の殆んどの人々"を龍巻きのようにまぎこんだ運動を見たことも聞いたこともない。右から左まで、年寄りから子供まで、女性も男性も、あらゆる階層と職業の人々が参加し、官も民も既存の組織と団体がそのまま運動をになった。それはどこからの指導も動員もない巨大な自然発生的な奔流であった。知事や市長、町長や村長、およびすべての議会の議長もタスキを掛けて先頭に立ち、政府も協力を約した。それは大衆運動というよりもまさしく日本の「国民運動」であり、核実験禁止は日本の「国民的悲願」であった。だがそれは、中央からでもなく、政党党派からでもなく、組織からでもなく、まったく地方から始まった大衆自らの運動であった。組織や団体の中央機関や各政党が目的意識的にとりくみ始めたのは初期の運動の大波がすぎ、各地方毎に署名運動の連絡本部が生れるころから、翌年一月全国署名運動連絡協議会の主催で全国総会がひらかれ第一回世界大会の開催が決議されるまでの間であった。それは総評も例外ではなかった。

  しかし、世界大会を重ねるうちに総評(労働者)は地婦協(主婦)日青協(青年)とともにこの運動の重要な階層的な主柱となった。しかしこの運動が生れたときの国民主義的な「胎盤」はその後もひきつづきこの運動の性格を深部で規定しつづけた。一九七七年の森滝・草野会談による「五・一九合意」―総評・日共合意―統一世界大会の流れはそれを示している。

 

三、「国民」合意の思想と運動

 

  「ビキニ」反核運動とその噴出したエネルギーが盛られていた構造のなかに国民主義的な性格があったとすれば、この運動の内部から長期に亘る朝鮮半島の植民地収奪、十五年にひきつづく中国への侵略戦争などアジアの民衆にたいする侵略、殺戮、支配の反省と謝罪は自然発生的には生まれるはずもなかった。第一回世界大会(一九五五)で被爆者が、「生きていてよかった」とむせびながら語ったとき、その被爆者のなかには最も身近なはずの在日朝鮮人被爆者は唯の一人もふくまれていなかった。それが初めて問題になったのは、被爆三十一周年(一九七六)の原水禁世界大会開会の開会総会で広島県朝鮮人被爆者協議会の李実根会長がその報告のなかで日本帝国主義の二重の犯罪的凌辱を告発したとき初めて正面からつきつけられ、この運動の重要な課題となったのであった。

  当時の運動は、天皇の戦争責任はもとより、侵略と殺戮に加担させられた日本民衆の責任を問題にする歴史的国際的立場とは程遠いところに在った。そこに在ったのは加害も被害も見逃さぬ歴史的視点ではなく、「ビキニ」と「ヒロシマ・ナガサキ」の被爆にのみ時の刻みをとどめた、かつてない核被害への民族的怨念であった。またそこには、日本人以外の被害者まで眼のとどく間もないほど切実な「最初で唯一」の核被害を受けた日本国民の怒りと悲願があったのである。

  このような思想的わく組みのなかで進められる運動と組織はかつてない強大なものであった。日本最大の労働者組織である総評と、全国の主婦や女性を組織する地域婦人団体協議会(地婦協)、当時はまだ活発な活動によって地域に大きな発言権をもっていた日本青年団協議会の三団体はこの運動の主要な支えであり、日本の主要な諸階層を結集していた。当初の一時期は参加していた自民・民社=同盟が離脱してからは、専ら社共が指導権争いを展開しつつ六三年の第九回大会でついに原水禁(三県連)と原水協に分岐した。その後地婦協など市民団体が分離したが、総評=原水禁という骨格はいささかも変わらなかった。かつての国民的構造は次第に労働組合的構造に変わったが、絶えずこの運動の原初に還る回帰的な流れを通じて、この運動の国民主義的な「胎盤」は容易に離れ難かった。そうしてその思想的性格はこの運動の組織と行動を長く規定しつづけた。

  日本原水禁運動の年次行動の主要なものは、年に一回、八月六日前後にヒロシマ・ナガサキに結集し、討論し、新しい年度の運動目標と主要なスローガンを確認する。しかしその目標に向かう行動は参加者それぞれと各地方の現場に委ねられ、この巨大な組織がそのまま目標に向かって行動することはなかった。それは行動のためというより毎年の八・六集会でその強大さを原水協と競って示威することが主要な目的となった。もちろん私達は、毎年一万人内外の労組組合員―かつては婦人会員をはじめ市民団体の人々も―が、広島・長崎に結集して被爆の実相にふれて反核の決意を固めることの重要さをいささかも軽視するものではない。それどころか、こうした感動的な認識と灼きつけられた記憶こそが長くその人々の胎内に生きつづけ、何時の日かそれが機会を得て行動に転化する源泉になることを固く信頼している。しかし反核運動体としての日本原水禁運動が、いつも大会に大動員するように基地にたいし軍港にたいして全力で大行動が組織されたことはない。

  かえりみれば「ビキニ」までの運動は、占領下でも講和後でも、米軍基地反対闘争を展開したのはけっして大組織・大運動の連合ではなかった。日本中で注目を集めた一九五二年の内灘米軍試射場反対闘争もまず内灘村の農民が座り込み、ついで北陸鉄道労組の労働者がかけつけてともに闘い、その呼びかけで全国各地方から労働者・農民と市民が一万人近くも結集して闘ったのだ。それは当時頻発した反戦反基地闘争がたどった発展過程であった。もちろん「にわとり」から「あひる」に替り、平和四原則を掲げなおした総評の熱心な支援があったことは見逃してはならない。たしかにそこには大組織・大連合の大集会ではなく、無数の小組織・小運動のただひたすらな行動する連合があった。

  また世界でもこのように巨大な運動体はない。一九八○年初頭のヨーロッパをおおいつくした数万、数十万の米軍中距離ミサイル設置に友対するデモや行動も、またニューヨークの国連前を埋めつくした百万人の世界の民衆も、けっして大組織・大運動の大動員ではなく数百数千に及ぶ小組織・小運動の巨大な連合であったのだ。一九八二年の広島(三〇万)=東京(四〇万)=大阪(五〇万)の春から秋にかけての連鎖集会もたしかに総評の呼びかけには違いないが、いまその人々はどこに消え失せたのか。

  だが「ビキニ」反核運動の「国民」的な性格は当然この運動の要求と行動を決定する。さまざまな切実で具体的な反核要求は「国民」的な統一のために圧縮された最大公約数の抽象的なスローガンにまとめられる。「統一」世界大会の準備過程に見られるように、大団体が一致した「核廃絶をめざして」という統一スローガンのもとで反原発、反トマホーク等切実で具体的な要求や行動は「国民的一致」を乱すものとして切り捨てられる。それは何一つ要求を切り捨てず共通の課題では大異を残して小同に就く諸外国の運動と対照的である。こうした運動の性格は、総評=原水禁という労働組合反核運動となったここ十年来の運動をなお深部で規定している。結局この運動の国民主義的性格は、この運動の思想と組織と行動をとらえて離さなかったのである。

 

四、「ビキニ」反核運動を超えるために

 

  しかし、いま「ビキニ」型大組織・大運動の時代は終った。すでにかつての「国民」的大連合は遠い夢となった。だがこの数年来、いや今年になっても「ビキニ」の亡霊はさまよい歩いている。「ビキニ」型運動構造の組み合せを替え、「禁」=「核禁」連合、「禁」=「協」一日共闘、あるいは社・公・民(連合)系列の新しい反核大組織・大運動がくり返し模索されている。「ビキニ」幻想はとりわけ一部の学者、全国労組指導者、知名士などにとりついて離れぬらしい。

  だが私達は、どこで運動をしていようとーこの大運動とは全く縁がないと思っていてもー世界でも稀有なこの大運動がもっていた「大衆的自然発生性」という積極的な財産とともに、「国民主義的性格」という負の遺産も歴史として継承していることを忘れてはなるまい。私は一九六五年、分岐後まもない原水禁代表団の一人としてヘルシンキ世界平和集会に参加した。私達は主題であるベトナム反戦に集中しながらも、休会や休憩を利用して被爆二〇周年世界大会のバッジを胸に世界大会への参加を呼びかけ説得して廻った。

その時、ナチズム闘争勝利二〇周年記念バヅジをつけたヨーロッパの代表たち、また長い間帝国主義の戦車に苦しめられ殺され、いまなお差別と闘いながら反帝闘争を続けているアフリカの代表たちとどうしてもいま一つなじみきれないものを心の奥で感じていた。いまにして思えば、私達がもっぱら広島・長崎の被害をアピールするとき、彼等は日本人の戦前と戦後を二つの眼ではっきり見据えていたのだ。

  日本人にとっては居心地の良い「国民」的社会は、内側では異端をたくみに排除しながら、外側から見ればまるで気持の悪いほど相似的な同心円の閉鎖的な共同体に見えるに違いない。「ビキニ」反核国民大運動もまたその共同体とけっして別なものではなかったのではないか。三年前に広島にきて私と会ったフィリッピン反核運動の青年活動家は、毎年八月六日前後に行なわれる儀式や集会を一年だけでも休んだらどうですか、と私に迫ったことがあった。

きっと彼はこの運動のどこかに、戦前も戦後も大集団でなぐさみや遊びにフィリッピンへ押かげてくる日本人達と同じ匂いをかぎとっていたのかも知れない。

  しかしいま広島ではその共同体神話が破られつつある。その端緒はヒロシマの被害だけをアピールする平和公園の原爆資料館などにたいする心ある人々や団体から修学旅行の生徒たちまでの鋭い指摘、また公園の一歩外におかれている韓国人原爆犠牲者慰霊碑の問題や朝鮮人・韓国人慰霊碑の公園内建立をしぶる広島市民のかたくなな態度への批判と追及からであった。つい最近あきらかになったかつての広島の強兵―第十一歩兵連隊によるマレーシヤ住民の虐殺を知って矢もたてもたまらずマレーシヤに出かけて現地の人々と交わった被爆者、韓国へ謝罪と交流の訪問に旅立つ被爆者たち。またそうしたことの重さと深さを心から確認しつつ、なおそのことであの悲惨な八月六日と今日までの苦しみの伝達が弱められ、ひいては反核をめざす運動や被爆者援護の闘いが忘れられはしないかと懸念する被爆者もけっして少なくない。かつて軍都でもあった広島はいま、戦前の原罪と戦中戦後の受難をめぐってゆれ動いているが、それは広島の運動が新しい思想と運動を創り出すための産みの苦しみではないか。いま広島は新しい道を求めて歩み始めたのである。

 

五、新しい運動の創造をめざして

 

  「八・五運動」はいままでの運動が自然のうちに持たされていた古くて新しい国民主義的な思想を超えるところから始まった。しかし一方で広島の大衆的な反核運動はすでに書いたようにいまその問題をめぐってそのただなかにある。というよりもいま始まったばかりである。だからといって私達が一歩先んじていると思ったらとんでもないうぬぼれではないか。私達の思想と運動が的を射ているか否かは、私達の仲間うちだけではなく、大衆的な運動とのふれ合いと行動の実践のなかで試されるのではないか。

  いま日本のなかでも広島地方でも多様な自立的諸組織が生れ、みなそれぞれが生々と活動している。それはけっしてデモンストレーションやアピールに終っているのではない。

むしろその反対に、行動主義とでも云えるほどすばやい実践で運動が展開されている。核艦船寄港阻止行動、基地の変化にすばやく対応する抗議行動、各地の原発にたいする反対運動と重大な事故にたいする即時の行動、また何ごとにつけても外すことのできない地方自治体への抗議と要請など。だが私達はこうした運動がどうしたら勝利できるかを考えたことがあるだろうか。

  最近反トマ全国運動が中心となった全国の多くの反核反戦活動家の呼かけによる「北西太平洋に軍縮の流れを作り出そう」というアピールが静かに広がっている(本誌前号、梅林宏道論文を参照)。このなかで重要なのは、今日の日米軍事同盟がっくり出している北西太平洋の軍事的危機をとりのぞいて軍縮の流れを作り出すために、何らかの中期的な実現目標について話し合おうと訴え、いくつかの具体案を提起していることである。いま私達の運動にとって最大の弱点は、勝利へ近ずくための長期に亘る体系的な戦略戦術が無いことである。一歩一歩時間をかけて平和の勝利をたぐりよせるための実践的で効果的な計画目標の選定と行動こそが何より必要なのだ。

  こうした追求を行なうためには一つや二つの運動体ではなく多くの運動体がネットワークをつくって検討しなくてはならない。私達は日本の反核兵器運動、反・脱原発運動などの発展をめざして流れをかえる転機をつくり出すために、共同の追求と共同の行動が是非とも必要なのだ。

もはや大組織・大運動の時代ではない。いまこそ小組織・小運動の計画し行動するための大連合が必要なのである。

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